生きること 死ぬこと

近所の友人テリーからルバーブをもらった。早速ジャムを作ろう。

庭でルバーブを育てている彼女は、数年前に末期癌で余命半年と宣告された人物である。彼女は、子供や小さい孫の為にもまだまだ死ねないと、リスクの大きい薬物療法を何度も行い、癌と戦い続けた。そして1年の闘病を経て、なんと驚くことに彼女の身体から癌細胞がごっそり消えてなくなっていたらしい。あまりの奇跡的な回復っぷりに医者もびっくりしていたようだ。

現在は、孫の世話をしながら、庭いじりに精を出す毎日。そんな彼女がよくいう言葉「神様が私を救ってくれた。」
そう、敬虔なクリスチャンの彼女は、闘病中、神様に祈り続けた。神にすがり続けて、そしてそのおかげで、助かったというのである。そう、神の力は絶大である。

私がもし、余命半年と宣告されたら、何にすがりながら生きていくのだろう。何に祈るのだろう。ふと考えた。この国で「あなたの宗教は?」と聞かれれば、とりあえず仏教徒と答える私(実家は浄土宗だし、仏教に一番馴染みがあるので、形式的には仏教徒ということにしている。)だが、ブッダに祈りを捧げるなんて、全く想像がつかない。ではもっと大きな神の存在?宇宙?どちらにしても、祈りの対象が明確ではない私には、答えのない問いだった。

「明日があると思うな。今日で人生終わりかもしれないのだ。」そう思い始めたのは、数年前の神戸時代、大きなクマンバチに頭を刺されて、「こりゃ、私、死ぬな」と思った時からか。頭に激痛が走り、唇が麻痺し、死を覚悟した時、まだやり残したことが山ほどあるという、死ぬ間際に良くある典型的な後悔の念と、やりたいことを後回しにしている自分に対するマグマのような怒りの念が押し寄せてきて、途方に暮れた。結局、私は蜂に刺されても死ななかったのだが、その怒りと後悔の念に押しつぶされるような感覚は、今でもはっきりと覚えている。

その後、様々な失敗もあり、つまづきや落胆もあったがなんとか海外移住を敢行。そして、今、これだけは声を大きくして言える。「やりたいことは、やりたい時にやれ。」そう、人生は短いのだ。明日死ぬかもしれないのだ。私が、いつか実際に人生の終末期を迎えたら、あの怒りと後悔の念を少しでも最小限にしていたい。

当たり前のようで実は当たり前でないこと。鼓動を感じること。息ができること。歩けること。自転車に乗れること。食べられること。喋れること。愛する家族や友人たちが側にも遠くにも居てくれること。毎日、今日の日を"イキル"ことが、実は奇跡なのだと思いながら、私は残りの人生を歩んでいく。あのクマンバチに感謝しながら。

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