ポートランド暮らしの手帖。

日々のごはんと、ふとした暮らしの気づきを綴ります。

アメリカ式モンスターペアレンツ?

あと3週間で夏休み。アメリカでは新学期が9月に始まる為、娘の学校では今が学期末。新学期に向けて教員の配置換え、クラス替えや、学期末のイベントなど忙しい時期に入っている。

娘の学校では、現在の校長が退任し、新学期からは新校長が着任することになった。教育委員会のサイトで彼のプロフィールを見たが、とてもエネルギッシュで、やり手の印象。前任の学校では、「全国の学力テストのスコアを20%も向上させた」やら、「教員の評価制度を構築した」など、教育者というより、経営者という印象。

さて、先日、保護者に向けて新校長のスピーチがあるということで、夫が学校に出かけて行った。新校長はスピーチの中で、自分のプロフィールや成果を惜しげもなく披露。そして、保護者からの質問タイム。保護者は、難しい質問を校長に投げかける。

「あなたの教育理念は何?教育における価値観は?」
「学校や社会から差別をなくすために、あなたにはどういうビジョンがあるの?」
「子供たちが安全に過ごすために、あなたはどういうプランを進めていくつもり?」
一つ一つ、難しい質問に対し、校長は丁寧に答えていく。

極め付けは、質問というよりも、尋問。
「この小学校では、教員、保護者が一体となり、素晴らしい教育環境をを作り上げることに成功している。私たち保護者は様々なボランティア活動をし、地域での取り組みや、寄付金集めのイベントを開催し、生徒のため、学校のために日々全力を尽くしている。あなたには、その一員となる覚悟があるのか?」

真剣に自分の意見や要望を主張する保護者たち。彼らはモンスターペアレンツなどではない。これは、学校側と保護者間の力関係の平衡を構築するのに、非常に大事なプロセスなのである。

学校側は、生徒だけではなく、保護者にとってもより良い教育環境を提供する義務がある。そして、学校が繁栄するのも衰退するのも、ある意味、保護者の要望や主張次第ということになのだろう。

この学校での一コマが、この国の民主主義社会における納税者(保護者)と政府(学校)との関係を象徴している気がした。

母の日

子供の頃から、ずっとお母さんになりたかった。結婚願望ではなく、母親願望。子供は3人は必ず欲しいと思っていた。

大人になるにつれて、誰でも母親になれるわけではないと悟った。願望だけが先走りしている自分と、厳しい現実のギャップを感じながら過ごした20代。子供願望のない、かなり年上の夫をパートナーに選んだ時から、母親になることはないのだと、涙ながらに自分に言い聞かせた。

結婚し、奇跡的に夫が子供を欲しがるようになったとき、自分の不妊が発覚。こんなにも、母親になりたい自分が母親になれず、母親になりたいわけではない人がポコポコ妊娠している現実を、疎ましく思っていた。体外受精を開始したが、失敗続き。数年後に肉体的にも精神的にも金銭的にも、全てが限界に達し、母親になることをやっと諦めた。子供がいなくても、夫と二人で仲良く生きていこうと、心に決めた瞬間、ふっと気持ちが楽になった。

その後、体外受精をストップし、普段通りの生活に戻り、仕事を再開した時、なんと娘の妊娠が発覚。人間の生殖機能のミステリーを経験した瞬間だった。母親になるためには、実は願望(執着?)を手放すことが必要だったのかもしれない。

何度も諦めかけた母親になる夢。それを叶えてくれた夫と娘。そして、自分をこの世に産んでくれた母。母の日には、「母にしてくれてありがとう」の感謝を伝えたい。なぜなら私は、母親になるということは、それはそれは奇跡的なことだという事実を誰よりも知っているのだから。

朝起きたら、娘が朝食を用意してくれた。あまーいあまーいデザートビュッフェ。
mothers day

自己主張と謙虚さの両立

アメリカ人は自己主張が強く、思ったことをストレートに発言するというステレオタイプがあるが、実際はそうなのだろうか?

先日、中間テスト終了後、クラスメイトと大学近くのパブで打ち上げ。ビールを飲みながら「この問題の表現がわかりにくかった」、とか、「この問題は馬鹿げた質問だ」など、彼らは不満をぶちまける。そこに、我々の教授が現れるという、なんとも偶然の鉢合わせ。学部の教授陣も、そのパブでミーティングをするらしい。

クラスメイトは、先生への挨拶もそこそこに、「テストのあの問題はわかりにくかったから、全ての選択肢を正解にするべきだ」やら、「この答えはおかしい、こちらを正解のはずだ」だの、みんな揃って先生への抗議活動を繰り広げる。もちろん、笑顔で丁寧に、でもストレートに。みなさん抗議がお上手。そして先生も、上手にかわしたり、笑顔で反対意見を述べたり。

先生=権威の象徴。権威に楯突くことが良しとされない日本社会の中で生きて来た私からは、びっくりするような場面に出くわし、一人だけその場をハラハラしながら見守る臆病日本人の私。

しかし、この場面は、アメリカではよくある日常の一コマ。この国では、自分の意見を主張しない人間は、弱い人間だと見なされる。自分の権利を主張しない限り、誰も権利を与えてはくれない。弱い人間は、生活の隅々で、損をするのである。

先日、夫が自動車保険の更新で、保険会社にクレームの電話をした。実際の走行マイルよりもかなり多めのマイルを基準に、保険料が算定されていた。何度も事情を説明し、実際の走行距離を報告したら、なんと半年間で計200ドル以上減額に。

自己主張万歳。でも、丁寧に。謙虚に。

子供は親の鏡

アンティークの鏡を購入した。アンティークの割に鏡も綺麗で、フォルムも気に入っている。

さて、私の大学時代の友人が、先日フェイスブックで、「子供は親の言うことを聞いて育つのではありません。親の姿を見て育つのです」という内容の投稿をしていた。ごもっとも。まさに「子供は親の鏡」。

「少しくらいは本を読みなさい。」と言う前に、自分自身は本を読んでいるのか?
「他人に親切にしなさい。」と言う前に、果たして自分は夫も含め他人に優しくしているか?
「将来の夢を持ちなさい。」言う前に、自分自身が大人になっても夢を描いて、それに向かって努力しているか?

自分自身に問いかけながら、自分の生き様を娘に示すとしよう。自分が親としてできることはそれくらいしかないのだから。

mirror





面談という名の

最近は、忙しさにかまけて、ちくわと卵とチキンウインナーに頼りっぱなしの弁当。ちくわは、韓国スーパーで調達。全くプリプリさに欠けて、美味しくないけど、娘は好きみたい。

chikuwa bento


昨日朝起きて、娘が嬉しそうにしているので、何か楽しみなことでもあるのかと聞くと、今日はミスターザック(担任のザック先生)と放課後に個人面談があるという。

個人面談といっても、日本のように、成績や日々の素行について、教師から注意、指導されるのではない。ミスターザックの面談はなんと「生徒とのティータイム」。韓国に住んでいた経験を持つミスターザックは、生徒のために、茶器や茶道具を教室にセッティングし、放課後一対一で15分ほどのティータイムを演出してくれる。緑茶を飲みながら、穏やかな雰囲気の中で、生徒は、家庭での話、日々考えていることなどを、彼に打ち明ける、そんな素敵な時間なのである。

帰宅した娘に「何話したん?」と聞くと、「お母さんのこと」。
「お母さんは、家で勉強ばかりしているけど、毎日少しだけ、カルタやトランプやオセロを一緒にしてくれるから、楽しい。」

勉強と家族との時間とのせめぎ合い。難しいところです。